信州をひもとく【3】

 林檎園の風景    


menu (1)  (2)  (3) (4) (5)                                   .

 追記1(藤原玉夫「りんごと共に40年」から)

 昭和18年頃から果樹園の2割減反が指導される。
 (17年8月に退職した藤原氏の園も小麦、陸稲、キビなど作付けするが稲は全く育たず.) 長野市内の運動場は野菜園と化す。

 「当時の食料不足はその極に達し、農家でさえ米麦の供出に追われ、満足に食することも出来ない状態であったのだから、いわんや非農家は推して知るべしである。それにしても,戦争は必ず勝つ、否必ず勝つと信じさせるようにさせられていたのだから、如何なることにも従い、また困難にも耐えられたのである。--。このようにして4千町歩の信州りんごは益々いばらの道を逢逞することになった。

 終戦直後の20年秋、どっと押し寄すリュック姿の買出しは実に驚くべきもので、恐らく非農家である限り、この経験のない家はないであろう。バスもろくに無く、ときおりと通る木炭バスより、歩いた方がよい。2里3里の道は平気なものだ。
 長い間の戦争から開放され、冬をひかえてこれから考えることは、何とかして生き抜こうとする気持ち一筋であることは誰も皆同じだ。買出しは主食、野菜、果実といろいろあるが人気のまとは何と言ってもりんごであったようだ。私の果樹園は県道から少し入り、人目には付き難い所にある。それでも朝から晩まで畦道づたいにリュックの男女は、誠ににぎやかなものであった。私は、門の戸を堅く閉め園の奥の方で仕事をすることにした。
 しかしこんなことが起こった。例によって私は人目を避け、仕事をしていると、小屋の方で話し声がする。視察者かと思い行ってみれば、これは驚いた。小屋の入り口から門まで30人位、しかも整然と一列に並んでいるではないか。話の様子では2,3人の者が無断で門を開けて入り、これを見た附近の買出し人がわれもわれもと押し寄せたものらしい。
 この頃私が特に感じたことは、敗戦の上食糧難とは云え、戦争中の厳しさから何となく明るさを加えたかに思われたことである。買出しは年とともに減少したとはいえ、23,24年頃まで続いた。泥棒も当時困ったものの一つである。買出しに遠くから来たものの売ってくれる者が無いので、遂に泥棒となる始末。昼休みを利用する者は比較的少量であるが、夜間は大量しかも計画的で一夜に数十貫目に及んだ例もあった。
 
 りんごは人気の焦点となった。かってはりんご作りを批判した面々も競うて新植を計画したのである。以来3,4年間は毎年1500町歩からの新植につぐ新植で、実に驚異的発展を重ね、今日に至ったのである。
 過去を振り返って見るに、日清戦争直後の明治30年、さらに日露戦争直後の明治40年頃、それに加えて今回の戦後の異常なりんごの発展は、まことに人心に、なにか大きな神秘的なものがあると思われて、私はただすなおに受け入れることが出来ないような気持ちがしてならない。
 この当時、新聞紙上で”金の成る木”とかきはやされたことも忘れることが出来ない一つである。
  
  menu    追記2





> H]OME


りんご園の風景
りんごの様子
写 真(りんご、長野)
「信州りんご」資料
栽培りんご品種の紹介 
りんご料理 
メ モ 帖
20世紀の記念
自習帳
宮沢千賀さん
リンク
周辺地図



 
当園概要  New
通信販売法に基づく表記