信州をひもとく【3】

 林檎園の風景    
井出孫六

menu (1)  (2)  (3) (4) (5)                  地域文化 vol.19(八十二文化財団刊)

   

 詩人の観察はときに幻影になることもあるが、ときに舌をまくほど精確であることもある。桑畠の間に桐の木やりんごが植えられていたという風景は、たぶん明治中頃までの在りようだったのではないだろうか。
 三輪村の原善之助が洋行帰りの津田仙から苗木をわけてもらった同じ明治12年、更級郡真島村の戸長 中沢治五衛門は県勧業課から品種不明の苗木2本を分与され、これを庭に植えたが、むろんどのような実がなるのか、それにどのような手入れをしたらよいかも知らなかったけれども、6年後の明治18年には見事に実をつけ、鎮守の祭りにお初穂として供えたのを、村人たちは賛嘆の目で眺めたという。

 政府は県勧業課を通じて苗木配布を明治20年までつづけたというから、研究熱心な篤農家は庭先や桑畠の畔などにりんごの苗を植えていったのであろう。ようやくそれが桃や梨と同じように果樹園に向く木であると知っても、二間四方ほどの密植であったから、梢はひたすら上に伸び、枝はまたたくまに藪と化し、実は陽のあたる梢に少しばかりなるだけで、それも隔年にしかならない上に、むやみに病害虫の好む厄介な果樹なのであった。

 善光寺に程近い往生地で養蚕業のかたわら、りんご園を少しずつ広げていった丸々儀重郎も真島村中沢治五衛門の子、貞五郎らと並んで創世記のりんご栽培家のひとりだが、長男一二が高等小学校を卒え、やがて父を助けてりんごの栽培にとりくむようになるのは日露戦争後の明治40年代のこと、一二少年の書き残した日記には、手探りで始めたりんごの枝の剪定や、施肥や、病害虫との闘いなどが、じつに丹念に書きしるされている。すでに、養蚕のかたわらとはいえ、りんごの栽培を手がける農家はふえていた。
 今日も枝切り、明日も枝切りという日がつづくが、自己流の剪定は「2年枝を3分の1ほど残してみな剪ってしまう」といった梅と同じような剪定であったらしく、いったいどんな機序で綿虫や貝殻虫や芯喰虫といったりんごの大敵を駆除できるのかという理論もないまま、「石灰硫黄合剤や亜ヒサンソ-ダなど共同でカマで煮てつくり、やたらに散布した」というような時代が大正にはいっても長くつづいていた。
 だからして、農民は蚕糸が好況であれば桑畠に精をだし、繭の値段が下落すると桑を抜いてりんごを植えるというような変転のなかにおかれていたともいえる。第一次大戦後、生糸の値段が一時的に高騰したとき、ようやく結実の樹齢に達しようとしていたりんごの木が次々と抜かれていった。信州りんごが飛躍するか破滅するかの瀬戸際に、広島生まれの若い枝師藤原玉夫が県農事試験場に着任した。大正10年4月のことだ。
                        
藤原玉夫
 それは、明治19年長野師範学校に浅岡一という校長を迎えた信州教育や、明治32年山路愛山という主筆を迎えた信州の新聞界と似ている。ひとりの若い枝師の来県は、信州りんごにとっては、時期からいえばむしろ遅きに失ったうらみさえあったほど、信州のりんご園は技術上のよきリ−ダ−を待ちこがれていたのではなかったろうか。
                                       


  戻る つづく







> HOME


りんご園の風景
りんごの様子
写 真(りんご、長野)
「信州りんご」資料
栽培りんご品種の紹介 
りんご料理 
メ モ 帖
20世紀の記念
自習帳
宮沢千賀さん
リンク
周辺地図



 
当園概要  New
通信販売法に基づく表記