愛知県豊田市の小学校6年生、和可奈さんへ

りんごの質問への返事を先日手紙にて送りましたが、うまく説明出来ずすみません。

意外にも我が長野日大高校が天理に勝ち明日は愛知県代表、名古屋の中京高と対戦
しますがどうなるでしょうか。

元日本兵の横井庄一さんがグアム島から「はずかしながら帰ってまいりました、」と名古屋へ
帰還した前後、
最初に出稼ぎに行ったのが名古屋で、
中京高校のすぐそばに住んでいました。
    (自分の昔をいうのもはずかしいですが、)
周辺には南山大、日本福祉大(移転済)、名城大、中京大やその付属高校、短大などが
集まっていました。その中の一つ名古屋大学に豊田講堂という建物がありました。
  (工場の休みの時大学祭の演劇、ヘレンケラーの伝記「奇跡の人」を豊田講堂へ
   見に行きました。「Water」のところだけはよく覚えています。)
豊田講堂は、トヨタ自動車が昔つぶれそうになった時に三代目社長になった石田退三
という人が決裁し昭和35年に寄付したのだそうで、トヨタの社会貢献力って大きいとおもいます
がどうなんでしょうか。。
世界のトヨタの、豊田市での存在はどのくらい大きいのでしょうか。税収とか、従業員数とか
社会科などで学習したら教えて下さい。  (豊田市⇒トヨタの発想しか出来ずすみません)


先月7月22日の日本国内で46年ぶりの皆既日食。長野でも7割位欠けた太陽が見る事が
出来ましたが、豊田市ではいかがでしたか。

 前回皆既日食の46年前というと、当方が和可奈さんと同じ小学校6年生の時です。
 ろうそくでガラスにすすを付けて観測した(ただし長野は部分日食)ような記憶があります。
   (その年、1963年11月23日、日米最初の衛星中継をTVの前で待っていましたが、
   突然「ケネディ大統領暗殺」の歴史的ニュース速報が送られて来ました。
   翌年には東京オリンピックがあった「高度経済成長時代」真っ只中の頃でした。
   日本が、ついでに自分も、最も可能性と希望に満ちた頃だったように思います。)

26年後の次の国内皆既日食は当長野でも見られるそうですが(当方は多分無理)、
世の中はどうなっているでしょうか。和可奈さんはどこで何をしているのでしょう。
   <はずかしながら初めて名古屋へ働きに行ったとき名駅地下街の店先で流れていて
    衝動買いしてしまったレコードがなぜか「花嫁」(
カバー)。
    今年5月末発売で今も売れているという 「1Q84]の主人公の2人は小学校4年の時の
    同級生。、その1人「青豆」も多分聞き、歌ったであろう この曲のような状態の方が
     よいと思いますが。>

夢、希望に満ちた和可奈さんのご健闘、ご健勝をおいのりします。


追記

 ↓ 
46年前当方が小6のころ発売された コロナ(トヨタ)




下の写真は
44年前、小学校6年生だった弟達が部分日食観測をしている時のものです。
この程度の日食でも真剣にやっていた様で何か切なさを感じます。




この写真も44年前のもので弟達が夏休みに流星群の観測をしていました。
母屋が雨もりするボロでしたので、裏に終戦後のバラックまがいの合宿所を造り寝泊りして
観測していました。
(立っているのが可能性と希望がしぼみはじめた中学2年の当方、右端がいとこの山岸政幸君)


      
44年前の小6.右が岡本君、左下が林君、左上が弟.  林君はラッパを吹いてうるさかったです

岡本克己君の父親は「孫一」さん。当時の電電公社勤務の長野、新潟を行き来する転勤族で新潟市寺尾在住の
おじいさんは「三郎」さん。親子逆のような名前だなと思っていました。
三郎さんは祖父がまだ健在な時我が家に逗留したこともありますし電電公社の奥様方が手伝いに来てくれた
こともあります・
いまだに岡本君の親戚の人たちが新潟からりんごを買いに訪れてくれてありがたいです。
林君には後年 当園の看板を作ってもらいました。
今も我が家は基本的に写真の当時と
変わらないボロ家です。後に「耐乏生活評論家」となった横井庄一さんの
教えを実践しているわけではありません。
働きが悪い、かい性がない、と言われています。

 HOMHOM E